『みんなの「わがまま」入門』について:政治的じゃないのに政治的な本

 『読むことの歓び 第15回読書感想文コンクール 優秀論文集(明治大学文学部編)という本をお送りいただきました。『みんなの「わがまま」入門』(左右社)が課題書として取り上げられたということで、読書感想文が掲載されています。

 『みんなの「わがまま」入門』については、刊行からそろそろ5年くらい経つのですが、徐々にではありますが版を重ねており、現在もご取材やご紹介をいただきます。実はこの本については、100超のメディアでご紹介いただいたにもかかわらず、自分としてはあまり言及したくなかったので積極的にその後の動向を書いてこなかった経緯があります。この春には新しい本も出ますし、もう書いても良いかなと思って筆をとっています。

 「わがまま」というタイトルのインパクトのせいか、あまり社会運動をこういうスタイルで語るタイプの本がないせいか、この数年間、本当に私の想像を超えたところに連れて行ってくれました。書店の「ビジネス書」棚で見たこともありますし、中学校や大学の入学試験でも採用されています。企業や自治体、労働組合の研修、講演にご招待いただき、様々な領域の実務家の方とお話することも多くなりました。
 ただ一方で、研究者である自分としては新しい成果を次々に出していくのが望ましいと考えており、「5年前に刊行した本に縛られた著者だ」と自分自身を思いたくないところもあり、それでなかなか積極的に言及したくなかったのです。もちろん楽しく書いた本で、研究書ではありませんが研究に基づく知見をちりばめた本です。いろいろな場で読まれているのが本当に嬉しく、誇らしいことですが、「自分ってこれだけなのかよ」と思うこともあれば、本一冊に人生変えられる程度の自分なのか、と感じてしまったところもありました。

 社会運動の研究をやっている割には、政党の支持・不支持など、あまり直接的に政治的なことを公に発言していない自覚はあります。立場を定めてコミットしている人からすれば、そこが「なまぬるい」のかもしれません。
 自分の書くものは「政治的」なのかとよく考えますが、おそらくそうは取られないでしょう。個人的なことが政治的だという意味では政治的ですが、世間のいう意味で政治的ではありません。直接的に政治的な活動を言ったりやったりしている人からすれば、そこが逃げのようで苛立つのだろうか、と悩んだりもします。

 ただ、私の本や言論を受け取った人々が「政治的」であり得るのかと、この読書感想文集を読んで感じました。
 中高生が中心の読書感想文集ということは、おそらく彼らの「政治」は制服とか生徒会といった問題だろうか……と思って、開いてみてとても驚きました。袴田事件や広島被爆者伝承講話、スターバックス出店への反対といった、いずれも私の予想を遥かに超えて、政治的な話題に言及した感想文が多数ありました。
 「政治的」な内容を書いているから評価できるといいたいのでも、「若者」なのにこんなに政治的な関心を持って偉い……などと言いたいのでもありません。この本が筆者の想定を超えて、筆者に欠けている何かをこんなにも鮮やかに読者が言葉にするさまを目の当たりにして、私はちょっと驚いてしまいました。

 私は講演や記事、出演番組で、都市部におけるデモの発生数や組合組織率の低下などを例にあげ「社会運動が不可視化された社会」だとお話しています(この点に関して、Sidney Tarrowなどが現代は「社会運動社会」であるといった議論をしていますが、私は現代日本の実情に照らしてこの議論には同意しかねます)。数字のみを見ればそれは事実ですが、でも本当に「見えない」のだろうかと、この感想文の数々から問いかけられました。
 近隣住民がスターバックスの出店反対署名をする、修学旅行で被爆者の講話を聞く、袴田事件の報道をテレビで見る彼らの日常には紛れもなく社会運動があります。それは私の日常でも同じで、子どもを保育園に連れて行けるのは待機児童の問題をめぐりネットや国会で議論で紛糾したからかもしれず、近所のスーパーマーケットの時給が上がったのは産業別組合やユニオンが労働状況の過酷さをマスコミを通じて訴えたからかもしれません。そういう意味で、実は私たちの日常はまだ社会運動の帰結なり成果なりにあふれていて、それを私が見ていなかっただけなのかもしれないとも思わされました。
 この本の読者は、この本の筆者が提供したレンズを使って、筆者が想定したよりもずっと「政治的」なものを見ようとしていて、そのレンズを通じて読者が見た「政治的」なものは、実は筆者の想定を超える形で多かったということに驚いたのです。
 
 それぞれの感想文に書かれている「富永先生」はまるで私とは別人のようです。「わがまま」であることに臆せずに意見を言っていい、それは自分だけではなく他者も思っていることで、批判や異論であっても言ってよく、それが社会を作るんだという論理を「富永先生」がくれたのだと彼らは書いていますが、私は実はその半分しか書いていないのです。
 私が書かなかった(そして書かなかったということに気づきもしなかった)内容を読者が読んでくれた事実に、本のもつそういった可能性に、5年たった今も、というか5年たった今だからでしょうか、ずっと魅了され続けているように思います。そしてその事実を、ようやく素直に受け止められるようになった気もしますし、自分の一部として少し大事にできるようになった気もします。
 「もう5年も経ってるのに……」とかつての自分は思っていましたが、逆ですね。5年経って、いろいろな人に知ってもらって今があるわけで、本ってそういうものなのでしょうね。自分の作ったものに対しても自分自身に対してもですが、私は「鮮度」といいますか、「新しさ」をあまりに重視しすぎていたのだと思います。

(この文章は、2024年2月3日朝日新聞夕刊「富永京子のモジモジ系時評」を大幅に改稿したものです。)

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