連載もさせてもらっているWeb書評サイト『ホンシェルジュ』に、富永と著書『社会運動のサブカルチャー化』についてのインタビュー記事が掲載されました。
「社会運動サブカルチャー」の正体(立命館大学准教授・富永京子インタビュー)
https://honcierge.jp/articles/interview/211
最初、「個人的な語りが多くて誰得(誰が得するのかわからない、の意)だけど、面白がる人いるのかね」と友達とLINEしながら原稿を拝読していたのですが、思いのほか好評で驚いている、といった感じです。ライターの烏丸おいけさんに感謝申し上げるとともに、私の「見当違い」について、心より謝罪をいたします。
本だけでなく、大学時代のことや大学院での研究、社会運動と出会うまでのことを喋っていて、ごく私的な内容に感じられるかと感じたのですが、私くらいの年齢の人は、こうした形で政治や社会運動と関わることが多いのかなと思います。
補足としては、先日の佐藤優さんとの対談記事(http://filt.jp/issue84/s01.html)でも少しだけ言及したのですが、近年の若者による社会運動における年長者のあり方について。ここは今回のインタビューでも言葉足らずで反省しているのですが、革新的な社会運動に携わる若い人々が政治的に特殊な経験をして、その上で運動に参加しているということは、彼らが日本社会において逸脱しているとか、外れ値だとかいうことを意味していません。むしろ、誰もが個別に特殊な形でしか政治を体験できないのが現代の日本社会だからこそ、近年の若者運動において、「個」の体験を詳らかに語るというスピーチのあり方が支持を得たのではないでしょうか。
それを踏まえると、若者たちが「普通」であるから支持を得たとか、こういう「世代」だから運動が可能になったんだ、という年長者の語りは、今のところ、どちらかといえばこの「個」の体験の豊穣さを捨象する方向にいっている印象があります。もちろん、彼らが東日本大震災の時期に10代であったとか、好況を経験していないとか、そういった世代的な共通点を見つけることはできます。ただ、震災に対する恐怖や、経済的不況をどのように感じたかという体験のあり方は、同じ世代といえど、居住地域や通っている学校、性別や家庭によって様々でしょう。そうした「経験」の多様性を捨象して、「政治的に無関心な若者が立ち上がった」運動と褒めそやしたことが、その後運動に対するどのような反響として残ったかということについては、再考する立場があってもいいのではないかと思うのです。
……ということを近著と、近く公開される予定の、あるウェブメディアのインタビューで語っています。(結局宣伝…)