富永ゼミグループ研究「日本人の政治的忌避感~『#音楽に政治を持ち込むな』批判から見る~」 2/3

 12日まで、富永ゼミ三回生によるグループ研究を連続掲載しています。本日は、「日本人の政治的忌避感~『#音楽に政治を持ち込むな』批判から見る~」第二回目です。
(第一回目はこちら。もう一つのプロジェクト、「日本礼讃番組はなぜ増加したのか」はこちら(英語版はこちら)から!)


 はじめまして、立命館大学産業社会学部富永ゼミ3回生の橋本茉依です。富永ゼミの連載『日本人の政治的忌避感~「#音楽に政治を持ち込むな」批判から見る~』第1回では、アーティストをはじめとする著名人達の政治的発言が忌避されているという実態から、私たちの政治的な忌避感を考察するという問題意識を論じましたが、今回は「政治的発言の忌避理由」と「政治参加の視点から見るアーティストの政治発言」について考察したいと思います。

 いきなりですが、皆さんは政治の話を私的な場に持ち込まれることに抵抗感はありますか?

 政治の話とひとことで言っても、とても幅広いものですが、私はアーティストがTwitter等で政治に関する話題を持ち出すことになんとなく抵抗感を持っています。この研究をするにあたって、友人に政治に関するインタビューを行ったのですが、私の友人にはこの「なんとなく」の抵抗感を抱いている人が多くいました。ですが、この「なんとなく」の抵抗感を言葉で説明するのは難しく、したがって多くの日本人が抱いている「なんとなく」の抵抗感を、政治に対する忌避(以下、政治的忌避感)や政治参加、社会運動という観点から検討してみようと思いました。

 第1回で示したアーティストの発言に見られる、既存の政策に異議を唱えるような行動に対する「なんとなく」の抵抗感については多くの研究や議論があり、たとえば國分功一郎は、政治に対して声をあげるということ自体が目的化していることへの「違和感」を主張しています(國分 2013:75)。その上で國分功一郎氏と麻木久仁子氏はこうした積極的な行動が「人々の心からかけ離れている」(國分・麻木 2013)と論じ、こうした距離が政治に対する「無関心」「忌避」と関連していると主張します。実際に平野浩は日本人の政治参加経験を分析していますが、政治参加の経験について日本の有権者に行った質問7項目のうち、2007年において、ほとんどの項目について1割以下にとどまっていることから、投票以外の政治参加経験は日本の有権者において非常に少ないことが分かります(平野 2012)。
 稲増による研究は、現代の日本人は政治を異質なものだと認識していると同時に、遠い世界のものとして認識しているということを主張しています(稲増 2015)。皆さんもそうだと思いますが、政治は日常の中で享受しているという体感がし辛く、また享受しようと思い、享受するものでもありません。その為、私達は政治を自分たちにとって遠い場所で起こっている出来事だと認識してしまいます。政治は遠い場所で起こって、遠い場所で完結している為、政治家の政治発言等に対する抵抗感は起こり辛いと言えるのではないでしょうか。こうした政治への「距離感」を、人間関係という観点から論じた研究もあります。岡本弘基は、政治が日本人にとって「縁遠い」「距離感のある」ものであり、あまり積極的に話題にされない点を認めつつも、家族や友人といった親しい関係性の中ではむしろ政治発言をすることには抵抗感を感じる人が少ないと主張しました(岡本 2004)。上述した先行研究から想定できることとして、政治という「遠い」「異質な」ものであっても、家族や友人といった、気心の知れた、ごく「近い」人間関係にいる人々の発言に対しては許容できることがわかります。
 ここから、日本人の多くは政治に対して忌避感をもっていて、投票以外の政治参加も積極的には行わないが、完全に自分から「遠い」ような人々、あるいはごく「近い」関係の人々の政治的な発言に対しては許容できると言えます。

 では、なぜアーティストの政治的発言に対しては「#音楽に政治を持ち込むな」論争に見られるような批判や非難が生じるのでしょうか。ここで今一度、政治と人間関係の「近さ」「遠さ」の関係の中にアーティストをはじめとする著名人(以下、アーティスト)を位置づけられてみたいと思います。私たちの日常において、アーティストはメディア媒体を通してでしか触れることが出来ない存在であるという点では、知識人や専門家と同じく、自分たちにとって遠い存在です。実際に岡本弘基の研究でも、家族や友人とは対話ができ、議論やコミュニケーションの可能性が開かれているからこそ、政治の話ができることが明らかにされていました。そう考えれば、対話もコミュニケーションも出来ないアーティストは政治家と同じように「遠い」世界の人々であり、政治的な主張を行っても他人事として受け取ることができるはずなのですが、第1回で論じたように、激しい拒否感を示す人は多く見られます。
 こうした点から、どこかで私たち一般人は、本来「遠い」人々であるアーティストが「近い」存在であると感じているのではないでしょうか。音楽を聴く、テレビを見るといった日常の行為のなかで、アーティストが作り出した創造物を享受している為、アーティストを親密な関係性の中で、自分たちに近い存在として位置づけているのではないかと考えられます。遠い存在であるにもかかわらず近く感じているからこそ、私たちはアーティストの政治発言を、専門家や政治家の発言と同じように遠い場所での出来事として認識することが出来ないのではないでしょうか。この政治的な発言をめぐる、人間関係の「近さ」と「遠さ」という観点を踏まえた上で、次回はインタビューデータの分析のもと、アーティストの政治的発言に対する忌避感がどこから生じ、また私たちの政治的忌避感とどう関わっているのかを明らかにしたいと思います。

(文責 橋本茉依)

参考文献:
平野浩,2012「日本における政治文化と市民参加―選挙調査データに見るその変遷―」『政策科学』19(3)
國分功一郎,2013『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』幻冬舎新書.
国分功一郎・麻木久仁子,2013「特集 生き方3.0 國分功一郎×麻木久仁子スペシャル対談――『政治色がない』運動なんて運動じゃない」幻冬舎plus ウェブサイト(http://www.gentosha.jp/articles/-/408),2016年12月20日最終アクセス.
稲増一憲,2015『政治を語るフレーム 乖離する有権者、政治家、メディア』東京大学出版会.
岡本弘基,2004「政治の話はタブーなのか-インターネットユーザーに対する実証分析から-」『中央調査報』557: 4965-4969. (http://www.crs.or.jp/backno/old/No557/5571.htm)

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