富永ゼミグループ研究「日本人の政治的忌避感~『#音楽に政治を持ち込むな』批判から見る~」 3/3

 連続更新していた富永ゼミグループ研究の日本語版、今回の更新でで最終回になります。今回は「日本人の政治的忌避感~『#音楽に政治を持ち込むな』批判から見る~」第三回目です。(まだ読んでいない方は第一回第二回からどうぞ)
本日から英語版も更新です。


 立命館大学産業社会学部富永ゼミ3回生の浜崎優衣です。『日本人の政治的忌避感~「#音楽に政治を持ち込むな」批判から見る~』第2回では、人々が政治的発言と人間関係を関連させて認識していること、その中でアーティストがどのように位置づけられるのかについて橋本による考察がありましたが、今回はアーティストの政治的発言に抵抗感、忌避感を覚えるのは何故かという問いに基づくインタビュー調査の分析を行い、そこからフジロックにおける「音楽に政治を持ち込むな」現象について考察し、日本人の政治的忌避感について考えたいと思います。

 私たちは、2016年11月8日から11月13日の間に、ポピュラー音楽に感心を持ち、フェスやコンサートに参加した経験のある18~25歳の18人の男女(男7人、女11人)を対象に、音楽と政治の関わりについての聞き取り調査を行いました。この調査の核となる質問は、「アーティストが政治的発言をすることに対してどう思いますか?」というものです。
性別や職業によらず、全てのインタビュー協力者は、最初「抵抗はない」と答えたのですが、話が進んでいくうちに「偏りがないなら」「押し付けがましいものでなければ」といった形でアーティストの政治的発言に対して条件付きの容認を行う点が特徴的でした。ここでは、回答の中でもっとも代表的な意見を3つ紹介します。

発言すること自体は個人の自由だし、アーティストは自己表現をしていくものだから、ありだと思うけど、日本ではそういう類いの発言は嫌われる傾向にあるよね。影響力のある人が政治発言をすることをタブー化させている傾向がさ。まぁ、影響力がある人達だからさ、仕方ないと思うけど。[Aさん 2016/11/11]

 Aさんの発言は、アーティストの「影響力」という言葉が印象的です。アーティストは、政治家や知識人と同じく「遠い」存在です。政治家や専門家も他人に対して影響を及ぼす存在であるとは言えるでしょうが、アーティストが他の人々と違うのは、政治家や専門家の言論を享受する人々とは違うような人々に対して「影響」を及ぼしてしまう点にある、と考えることもできます。
 では、アーティストが政治的な面で影響力を持つことは、なぜいけないのでしょうか。ここで、どのような「政治的な影響」であれば忌避感を持たれないのか、を示すBさんとCさんの語りを紹介します。

別にいいんじゃないの?アーティストが発言することで、選挙に興味を持ったり、選挙に行くきっかけになったりするだろうし、実際私も慶ちゃん(アイドルグループNEWSのメンバー小山慶一郎)とか、翔くん(アイドルグループ嵐のメンバー櫻井翔)がニュース番組で「選挙に行きましょう」って言ってるから、投票に行ったり、政治のこと一応は調べる様になったもん。でも、「選挙に行こう」まででとどめて欲しい。党派性の話とか本質的な話をされると個人の思想とかの押し付けに感じるから、ダメな気がする。[Bさん 2016/11/10]

どっちかっていうとありやな。個人の意見やから言ってもいいやろ。自分は右でも左でもどっちでもないから、党派を帯びたことをアーティストが言ってもいいと思うけど、自分がもし強い政治的見解を持っていたら嫌かもな。「選挙に行こうよ」とかは全然ありやけど、党派が含まれると嫌かもしれん。[Cさん 2016/11/13]

 BさんとCさんの語りからは、アーティストの政治的発言を「別にいい」「個人の意見」と許容しつつも、自分とアーティストとの間に政治的な立場の差異を認めることに抵抗を示す姿勢があると分かります。たとえばBさんにとって「選挙に行く」ということは「慶ちゃん」や「翔くん」と同じため許容できますが、仮に彼らが原発の問題や介護の話をしてしまったら、それは場合によっては「押し付け」ということになります。
 こうした感覚は、Cさんの語りにより顕著にあらわれています。「右でも左でもない」というCさんは、最初「党派を帯びたことを言ってもいい」とアーティストの政治的発言を許容していますが、後の語りでは他の人と同様に「党派が含まれると嫌」と語ります。Cさんは「右でも左でもない」という「強い政治的見解」を持っているために、アーティストが「右でも左でもない自分」と「違う」ことを示してほしくない、と解釈することもできます。
 まとめると、上に挙げた人々は「個人の意見」「自己表現」としてアーティストの個性を認めつつ、その「影響力」「個人の思想とかの押し付け」という言い方で、自分とは異なる政治的志向を持つアーティストの発言に人々が少なからず影響を受ける、しかもアーティストとの双方向の関係性ではなく、アーティストから一方的に享受するものとして認識していることを示唆しています。第2回に示した岡本弘基の研究では、たとえ自分と異なるようなものであっても、近しい関係の中では政治的な発言に寛容になると主張されていました。なぜそれが「近くて遠い」アーティストの政治的発言には適用できず、「押し付け」として受け取られてしまうのでしょうか。

 ここまでの考察から、本研究の核となるアーティストの政治的発言について検討していきます。アーティストの政治的発言に抵抗感、忌避感を覚えるのは何故なのでしょうか。私たちにとって、自分たちの生活に入り込まないとても遠いところで行われる政治発言(政治家や著名な研究者による声明、発言)に対しても忌避が起こらず、親密な関係性の枠組みの中で行われる政治発言(家族、友人との会話)に対しては、たとえ個人の思想や党派性があったとしても忌避感が起こりません。しかし、その中間に当たる位置で行われる政治発言(アーティストによるSNS上での政治発言)に対しては忌避が起こるのです。
 政治家の発言は、自分にとって遠すぎるため関係がないと感じる傾向にあります。一方、身近な人との会話では、相互的にコミュニケーションをとれるため、自分との政治に関する認識のズレをその場で修正することができます。しかし、聴き手とアーティストの関係性は、聴き手がアーティストの発言や音楽を享受するだけの一方的な行為であるため、直接そのズレを修正することができません。結果として、自分と違う価値観や理念を持つ発言が「押し付け」「影響」として聞き手に残るのです。そのため、アーティストの政治的発言には忌避が起きやすい傾向にあるのではないでしょうか。
 アーティストによる政治的発言を許容・奨励するか否かという議論が巻き起こした「#音楽に政治を持ち込むな」論争に参加したアーティストや音楽ファン自体は、Twitter上などで見てもそれほど多くありません。しかし、こうした論争の根幹にある価値観を支えていたのは、今回のインタビューに見られたような、政治的発言に対して条件付きの容認を行うような「政治的忌避感」を持つ人々なのではないでしょうか。
また、この論争は、アーティストの発言だけでなく、私たちの周囲の人間関係と政治についても示唆を与えてくれます。私たちはTwitterで有名人やアーティストのツイート(発言)をリツイート(共有)するなどの行動によって、政治的な情報の受信者となるだけでなく、発信者にもなりえるためです。そう親密ではない人々も見ているSNSでは、政治的発言やリツイートの性質も、普段の会話と変わってくる可能性があるでしょう。

 ここまで、3回に渡って私たちの研究をご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか?まだまだ改善すべき点も多いとは思いますが、本研究を通して政治について考えたことは良い経験となりました。読んでいただいてありがとうございました!
(文責:浜崎優衣)

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