3月31日に、書き下ろし著書『社会運動と若者――日常と出来事を往還する政治』が刊行されました。
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※オンライン書店は一週間ほど発売が遅れるようです。
この本は、前著(『社会運動のサブカルチャー化』)からあまり間もなく刊行することになりました。私自身、まだ若いうちに…というか、若くなくなりつつある内に書いてみたかったのです。若いうちにでも、年取ってからでもなく、若くなくなりつつなるときだからこそ書けるものがあり、その期間はおそらくほかより少し短いだろうと思ったのです。一応の目安として30歳になるまでに出そうと考えていましたが、30歳になってようやく出せました。
前著を読んでもらう中でよく「新しい世代」とか「若い」とか概ねそういったことを言われました。その含意は、たんに未熟だとか、その世代なりのものの見方をしているとか、色々あるかとは思いますがよくわかっていません。ただ、私がそうした反応から感じたことは、若くなくなった私はこれから何を書けばいいのか、私が自分より若い人々を理解できなくなったとき、どうすればいいのかということでした。そう思って選んだ題材が「若者」でした。
28歳で今の大学の准教授になったことで、私の生活も変わりました。着々と研究業績を重ねていく同世代のポスドクや院生の人々を見て焦ったし、教務・学務と研究の両立もとても難しいです。大学院生活は明確な終わりがなく、永遠に続くような気分でいたのですが、結構あっさり終わってしまって、むしろ唐突に「大人」になる必要に迫られたような気持ちになったことを覚えています。
一方で、大人ぶって虚勢をはっていたところもある私は、新しく大学で出会う「若者」をナメていました。ナメていたから、ライフスタイルやポップカルチャーを題材にした国際社会の授業をして、自分の研究の話は極力しないようにしました。社会運動はマイナーだし、若い人が好きになるようなものではない。いくら脱原発や特定秘密保護法案、安保法制の運動が盛り上がったからといっても、それはあくまで「一部の特別な人」のものであって、若者が関心を持つような行動じゃないだろう。私のそばにいる学生は、若くて未熟で無知だから、政治や社会運動なんて関心がないだろうと思っていました。まさに私がこの本の中で批判したような人々が行っていた「若者」へのレッテル貼りを、私自身が学生に対して行っていたし、なまじ社会運動の研究者であったために、社会運動自体が社会で占める位置への変化にも鈍感だったのです。
この本は2011年以降の社会運動に参加した「若者」たちに取材をさせてもらいながら書いていますが、取材の中で聞き取った彼らの嗜好や政治意識を解釈するにあたっては、教員として学生さんと接した経験が大きかったです。一見「政治に無関心」にも見える人々と接してわかったことは、彼らは政治に対して無知でも無関心でもないのではなく、私たちと表現や理解の仕方が違うのだ、ということでした。彼らは野外フェス、あるいはサッカーやボーイズラブ漫画について語ったり論文を書いたりしていましたが、そうした主題を通じて原発や平和、移民や性といった問題を考えていました。若者が私たちとは違うやり方で政治への関心を表現しているのではないかということ、その関心を直接的に言語化しない背景にはそれなりの理由があるということを、私は彼らとの交流を通じてはじめて理解したのです。そういう意味で、社会運動や政治は「特別」なものでも「マイナー」なものでもない、ただそれぞれ異なる経験や嗜好を通じて解釈され表現されているということが、ようやくそこで理解できたように思います。
最近就活のためなのか、ゼミ生の方から「大学教員が第一志望の進路だったのか?」と聞かれます。正直、いまここにいる理由は、流れというか止むに止まれずというしかありませんし、特に希望通りというわけでもないです。ただ、別に希望通りにならなかったから失敗だというわけでも全然ないです。現にこの本は、教員になって大人になって、自分より若い人と出会わなければできなかった本なんですから。
今の私は、前の本のもととなった博士論文を書いていたときほど自由ではありません。そして、社会的な意味においてもう若くありません。ただ、前の本を書いていて、ずっとこのままでいたいと思っていた2年半前の私に対しては、あなたが思ってるほど、新しい社会的立場を得ること、若くなくなることは悪くないよ、というと思います。それはやはり、若さを失ったからこそはじめて出会えた魅力的な人々と、彼らの持っている謎に出会えたからです。
だからこの本は、私に大人になる機会と問うべき謎をくれた「若者」の方に、まずは贈ります。