『新社会学研究』に『社会運動のサブカルチャー化』、『図書新聞』に『社会運動と若者』のご書評をいただきました。また、今後『リヴァイアサン』『立命館大学産業社会論集』でご書評いただくということで、もうほんとに楽しみです。いずれも専門的な雑誌ではありますが、面白い記事がたくさんありますので、見かける機会があればぜひお手に取ってみてください。
今回書評してくださった評者の方はそれぞれ、栗田宣義先生(甲南大学)と松井隆志先生(武蔵大学)です。松井先生には院生時代、修士論文の執筆からずっとお世話になっており、栗田先生は「政治的社会化」研究や「社会運動の計量研究」の先駆者である偉大な先生ということもあり、書評でこうした点にもご言及いただきとても有難いご書評です。
いくつかのご書評で近い論点が投げかけられているため、リプライは総合的に、もう少し時間をかけてしたいと思っていますが、とりわけ印象的だった部分がありました。
それは栗田先生の書評にある、”社会運動の学術的昇華たる社会学の、社会運動の不幸を逓減させるという崇高なる使命は不変である。活動家の日常、昂揚、挫折、再起の分析と解釈、社会におけるその位置づけを介して、富永はそれを想起させる”(『新社会学研究』)という部分です。
”社会運動の不幸を逓減させる”という表現は今までいただいたご評価の中で、一番自分の運動に対する立場をしっくり言い表しているなと感じました。よく院生時代、「君は運動に対して冷笑的なのか、それとも共感的なのかどっちなんだ」という質問をされました。そのたびに「当然、共感していますけど、少なくともほかの社会運動の研究者のようなやり方では共感していないです」という答え方をしていました。ただ、それをどういう言葉で表せばいいのかは謎のままで、「✕✕ではない」と言えるのですが、「◯◯だ」とは言えない状況が続いていました。栗田先生のこの表現は、自分の中にある「◯◯」を言い当てられたような高揚感がありました。
私の最初の方の論文は、すべて、「社会運動論は社会運動の発生、持続、発展、帰結を主に論じてきた。しかし本研究では…」という言い方をしながら「隙間を塗りつぶす」役割として、社会運動の衰退や、目的とは一見関係なく見える参加、また運動の中での個人の社会化といったものを見ようとしています。それが何のためなのかといえば、社会運動の不幸、つまり活動参加者が意図しない形で行う組織の消滅、運動の中断、沈滞、失敗を回避したいと願うからです。取材や活動の中で、社会運動に関わったことによって不幸になる人と出会うことがしばしばあって、その人達に対する共感という気持ちのほうが、政治や社会を変えたいと思う気持ちより強かったからです。
正直、自分のように「外から見た」社会運動研究をやっていると、「やってもないくせに」とよく言われます(そしてそう言いたくなる気持ちは重々承知していますし、そのように言われることには何の反論もしません)。ただ、「ずっとやってる人」がずっとやれてる人なのは、その中でやれなくなった人がいるからではないか、という問いは、やってないから、関わりが薄いからこそ言えるものだとも思っています。
社会運動が組織行動であり、参加、発生、持続、発展を問えるような対象であるのは、その裏側に不参加、離脱、衰退、沈滞といった事態が潜んでいるからではないでしょうか。怒りや不満から参加し、資源を供出しながら継続し、集合的アイデンティティやフレームの一致によって他者と団結し、社会運動を継続させ発展させられる裏側には、いつも資源を持たない人による燃え尽きや、集合的アイデンティティについていけない人、フレームのすれ違いから「ちょっと違うな」と感じている人の存在が潜んでいるのではないでしょうか。そうした人の存在を、私は組織の持つ規範や作法(社会運動サブカルチャー)の形成と再生産のなかで捉えたかったのだと思います。