立命館大学産業社会学部には「産業社会学会」という学内の研究コミュニティがあるのですが、そのニューズレター『さんしゃ Zapping』(通称『Zapping』)で著書紹介をしました。 こちらのURL http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=351023 (オンライン版)でも見られますが、結構書きたいことが書けたと思うのでこちらにも貼ります。見ていただけるとうれしいです。
先週から後期の講義が始まりましたが、2回生の問題関心、3回生との輪読、4回生の卒論報告、院生の調査経過報告、すべて、本当に面白く聞いています。教員になって大変なこともありますし、いろいろしながら研究業績を積み重ねるのはまだまだ難しいですが、自分の研究にこもっていたのでは共有できない関心や情報を得ることができ、貴重な場をいただいたと思います。元々この自著紹介は、学内(学部内)助成で刊行した本を紹介するためのコーナーでして、そうした資源的な面で「立命館に来ないと書けなかった本」ではあります。一方、新鮮な興味関心を持った、勉強熱心な学生に恵まれたという意味でも、やはり「立命館に来たから書けた本」だと思います。そういう点で、学内で自著について書く機会をいただけたことは幸いでした。
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「若者」と過ごす日常の中で書いた本
『社会運動と若者――日常と出来事を往還する政治』
――一緒にテレビを見ていると、お父さんが言うんです。中国人がどうとか韓国人がどうとか。やめてほしいけど、強く言えない。お世話になってるし、尊敬しているから……。
本書は、2011年以降に日本で話題となった脱原発運動、特定秘密保護法反対運動、安保法制に対する抗議行動に参加した「若者」たちが、どのような動機から社会運動に従事したのかを問うものです。社会運動論の多くは、デモやシンポジウムといった「出来事」に主に注目してきましたが、学校や家庭で過ごす「日常」もまた若者たちの政治を形作っているという前提のもと、「日常と出来事の往還」として社会運動を捉え、分析しました。そこから見えてきたものは、華やかで劇的に見える運動の表舞台とは裏腹に、彼らが可能な限り「意識高く」「政治的に」見えないように、「浮かない」ように「普通」を志して生活している点、そういった日常の中でも、熱心に社会問題に関する勉強をしたり、シェアハウスや寮での振る舞いに自由や平等といった価値観を反映している点でした。その上で、若者たちの運動は、普段から消費している音楽や学んだ学問の理念に基づき、あくまで日常の延長として行われていることを明らかにします。
この本は、前著『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)から半年足らずで刊行しました。短い期間で出版した理由は、大学に就職して、年長者として「若者」たちと出会った衝撃を忘れないうちに書いてみたかったためです。その「若者」たちとの出会いの場として、他ならぬ立命館大学産業社会学部がありました。筆者は前著を通じ、社会運動に携わる人々が日常と出来事を行き来しながら、自らの政治的理念や理想を形成するさまを「社会運動サブカルチャー」という概念から説明しました。それは例えば、二種類だけではない多様な性のありかたに沿った振る舞いをしたり、民族的なマイノリティの人々に対する配慮をしたり、というもので、こうした振る舞いは、社会運動に携わる人々の日常と出来事に同様に反映されます。
しかし、かりに政治的に強い問題意識を抱いていたとしても、家庭や職場で過ごす「日常」とデモや学習会の場である「出来事」に、政治的理念を終始一貫して反映できる人の存在自体が非常に稀であることもまた認識しておかねばならないでしょう。いくら反権威を主張していたとしても、職業や家庭生活の都合上権威的に振る舞わねばならない側面もあるかもしれません。グローバル化から距離を取りたい気持ちもありますが、スターバックスやマクドナルドを使わなくてはならないこともあるでしょう。こうした「出来事」と「日常」の間にある葛藤を強く認識したきっかけは、ある講義の終わりに受講生の方からかけられた、本稿の冒頭で紹介した言葉でした。この言葉を聞いた時、「若者」に注目する学術的な意義が明確になったように感じました。社会に対する諸義務を免除され、労働よりは消費の担い手として見なされる一方、多くの場合親の扶養下にいなければならず、学校という場で年齢・属性的な均質性の高い人々との関係構築を迫られる。それゆえに政治との関わり方を制限される「若者」という担い手は、「社会運動サブカルチャー」の概念を拡張する上でも、政治について関心を抱くことと語ること/実践することの断絶を論じる上でも、非常に重要だと感じたのです。
本書は、立命館大学に赴任した2015年の夏から、二年目の締めくくりである2017年の2月まで書き続けた結果出来上がったものです。大阪、東京、札幌、福岡……といった都市をめぐり、社会運動に参加した若者を追いかける「出来事」と並行して、京都で過ごす「日常」の中で産業社会学部の学生たちと話し続けてきました。当初、筆者自身の日常と出来事を通じて出会った若者たちは、それぞれ全く違う世界を生きているように感じられました。しかし、社会運動に参加する学生も、一見して政治に関心を持たないように見える人が少なくない「産社生」も、同じように2010年代の後半を「若者」として過ごしており、ある種似たような形で自らの政治と生活を捉えていることが、段々と明らかになってきたのです。
本書の中で、社会運動に参加する若者たちは「意識高く」なく、過度に政治的に見えず、ごく「普通」に見えるよう、工夫しながら自らの政治関心を友人や家族に伝えようとします。私はその姿勢に、基礎演習や専門演習でうまく他人と調和しつつも、個人的な引っかかりや問題意識を潜めようとする学生の態度にどこか近いものを感じてなりませんでした。このような若者たちの行動様式は「同調志向」とか「空気を読む」といった形で簡単に括っていいものではなく、教室で、バイト先で、リビングですぐ隣りにいる、自分と違う経験をし、自分と違うように社会を生きている友人や家族への慎重な配慮の結果でしょう。それは彼らに主体性や自発性がないのでなく、他者と経験や生きている背景が異なり、同じであることが自明ではない「個人化」「多様化」の時代に他者と関係を築こうとする限り避けられない態度なのではないでしょうか。
出版にあたって、産業社会学会出版助成金(2016年度)をいただきましたが、それにとどまらず、本書は上述した点でも、産業社会学部に在籍しなければ完成しなかった研究成果でもあります。教育者としても研究者としても未熟であるにもかかわらず、日頃より研究・教育の機会を下さり、心より御礼申し上げます。この本が、産業社会学部に所属される先生方、職員さん、何より院生・学生の皆さんにとって何らかの役に立てば、誠に幸いです。