共同通信社発信の「本の森」に寄稿しました。いくつかの地方紙に順次掲載されているということですので、帰省などの折に偶然見つけた人はぜひお伝え下さい。
記事はいちばん下に引用させてもらっていますが、彼女が倒れたのは2009年6月で、大学院に入学して(東京に引越して)まだ間もない時のことでした。倒れたとの報を聞き、北海道に帰って一週間ほど一緒に過ごしたときに、「もう長くない」という言葉を別の親族から聞きました。「もう長くない」という言葉は信じたくない状況ながらも、仮に「長くない」という言葉が真実であった場合どう行動するか、と考えた時に、学部生のときと同じように、自分の行ってきた珍しい場所や、学んでいることについて普段通り話し続ける一週間にしよう、と決めました。だからその滞在でも、いつもと同じように北大に行って先生たちに挨拶をして、いつもと同じように在学中の後輩や就職した友達と会って、その帰りに入院している祖母に会いに行く、という生活をしました。
最後から二日目に、北大時代の指導教官の先生と話して本をいただいてきたんだよーと本を見せると(ちなみにこの本は『革命待望!――1968年がくれる未来』という本で、その数年後にこの本の著者の方々と仕事をするようになったことは、今思えば光栄かつ不思議なことです)、「京子ちゃんが本を書いたら、目を皿のようにして……皿のようにしても読めるかどうかは分かんないんだけど」と話していたことはよく覚えています。
そのときに、これだけは絶対に言うと決めていたのか、「私が死んでもなにかあなたに……」と言われて、彼女が「長くない」という事実から逃げないのだったら私も逃げられないと観念してしまって、その後数十分ほど「祖母が死んだあとの話」をしました。外は晴れていて、北海道の初夏らしく風が気持ちよく、テレビではマイケルジャクソンの訃報が流れていました。
その一ヶ月後、彼女が亡くなって、私は本郷キャンパスにあった文学部の三号館で先輩たちの修論を読んでいる時にその知らせを聞きました。その後、親族の取り計らいで、この記事に書いたような生活が始まりました。生活費こそ家族からの仕送りでまかなえていましたが、研究にはお金もかかります。調査や書籍の購入に不自由しない生活は有難いもので、バイトに行くこともなく研究室と調査地を往復することができ、生活をほどほどに楽しめて、将来の不安なく研究に打ち込めたのも彼女と親族のお陰だと思います。
社会運動論には「資源動員論」という理論があります。これは、参加組織の保有資源が運動の持続・動員を規定するものというもので、私が特に好きな研究の中に資源の「質」といいますか、資源がいかにして調達されたかが運動の方針を左右することを実証的に示した論文があります。組織論の文脈では「資源依存パースペクティブ」と言われる概念に近いですが、社会運動の場合、敵手への対抗ができるか否かという点に関わってくる点がなかなか難しいところです。
これは研究に関しても同様で、それは助成金に応募したり補助金をもらったりしながら研究している人にとってはきわめて当たり前のことですが、そういった「資源依存」性が彼女の遺産にもあるのかということを、ずっと考えていました。私はやっていることや考えていることに関して言えば、いわゆるリベラルとか左派とかいうような立場だと思うのですが、はっきり言って彼女とは全くそういった点では合いませんでした。彼女は貧困状態にある人やマイノリティの人に対しては、一貫してきわめて冷淡だったし、はっきりいって過剰なラベリングを込めていたように感じます。多分同じゼミとかクラスにいたらお互いのことをそうとう困った人として認識しただろうとも思いました。
もし仮に、私の研究の根底にあるイデオロギーそのものが彼女を継げないのだとしたら、私自身は、そして私の研究は彼女の何を遺しているのかと考えて書きました。
社会学者 富永京子さん/ある婦人の肖像/ヘンリー・ジェイムズ著/祖母の託したもの
大学院に進学した22歳の夏に祖母が亡くなった。以後、私は彼女の遺産のおかげで研究生活を続けることができた。祖母の葬儀を終えて実家に戻ると、書棚のヘンリー・ジェイムズ「ある婦人の肖像」(行方昭夫訳、岩波文庫)が目についた。中学生の頃に市民図書館で借りたが、長編なので貸出期間内に読む自信がなくなりネットオークションでそろえた本だ。
自由と独立を志す米国人女性、イザベル・アーチャーの人生を追った「肖像」であるこの物語は、米国人の目に映る、因習的だが魅力的な欧州の人々や風景とともに描かれる。彼女を愛する従兄(いとこ)ラルフの厚意により、伯父の遺産を継いでより広い世界を見ることに成功するイザベルだが、世間知らずの彼女は自身の判断に対する過信と傲慢(ごうまん)さから、ある悲劇へと自ら足を踏み入れてしまう。
初めて読んだ10代のとき、イザベルの進歩的な振る舞いに憧れた一方、周囲の助言を無視して破滅へと突き進む彼女を苦々しく思った。
物語の終盤でラルフは死を直前にしてなお、破滅したイザベルを救おうとある提案をする。祖母を亡くした22歳の私が本書を再読し、想像をめぐらせたのは、遺(のこ)されたイザベルよりもむしろラルフの方だ。
死んだ後の世界を想像することに、どれほどの勇気が必要だろうか。自分が死んだ後の世界で、自分の遺すものが意図通りに受け取られる保証は全くない。それでも誰かに何かを遺し、託すことは、どれほど相手を愛していれば可能になるのだろうか。イザベルは、ラルフ亡き後自らの過ちとともに生きる。
祖母の遺産で新しいものをたくさん見た。そしてずいぶん過ちも犯した。それは私自身の未熟さや傲慢さによるものだ。しかし、彼女はそういう私であることも含め、認め、愛し、託し、遺した。遺産そのものでなく、託されたという事実が私を支えた。彼女が遺したものでつくった経験と知識とともに、過ちと傷も消えず、常にそばにある。
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とみなが・きょうこ 1986年札幌市生まれ、立命館大准教授。著書に「社会運動と若者」など。書評サイト「ホンシェルジュ」で漫画批評を連載中。