先日、東京にある自宅の近くで買い物していたら「朝日新聞の富永さんですか?」と聞かれました。私は五年ほど朝日新聞夕刊で連載をしていたのでそのせいかと思われますが、さすが新聞ともなると影響力が違うものですね。
というわけで、2019年から2024年まで続いた連載「富永京子のモジモジ系時評」が終了し、朝日新聞デジタル「あちらこちらに社会運動」を新しく連載することになりました。毎回社会運動に関わる主題を一つ挙げ、その主題にまつわる社会運動関連論文を紹介する「おもし論文編」と、各分野の識者とする「おしゃべり編」から成る連載です。第一回は「移動」です。
「モジモジ系時評」は自分の代表的な連載となり、だいたい冒頭のように「朝日新聞読んでます」と声をかけられるほどになりました。記者さんからの注文は特になく、いつも自由に書かせていただいておりました。強いて言うなら、最初の1年半くらいは東京本社版限定ということで「東京」の話が多かったり(その後全国版になりました)、文化欄であることを意識してかその時々の映画やアニメの話が多かったようにも思うのですが、じきにそういう気負いの枷も外れていきました。
節目となったのは、特に大きな反響をいただいた、私がかつて受けたパワー・ハラスメントに関する記事(2021年1月)と、休職を発表した記事(2021年10月)、そして出産とその秘匿を公表した記事(2022年1月)でした。私がこの頃から書き始めた記事は、もはや 「時評」というより、「内省」や「告白」といったほうが適切だったように思います。ただ、それで良いと思えたのは、人々の時間そのものを作り出す力が、 新聞という媒体を借りた自分の言葉にもあると気づいたからかもしれなません。大澤真幸先生によると、時評は「その名の通り、主にその時にだけ、その月にだけ読む価値がある」そうですが、その時だけの書き物でしかないなら自分自身に流れる時を書いてみたかったのです。
さらに言えば、その時々で世間に起きたことを評する側になるよりは、自分の言葉で時を作り出すほうが向いているように思ったのかもしれません。休職や妊娠、別れ、再会といった、実に個人的な「時」の話ですが、その時々で抱える思いを言葉にすれば、 少なくない人々の中でわだかまっていた時をもう一度始めさせる効果があり、あるいは近く同じ時を迎える誰かの力になることもあるのだと、様々な方の反応から気づきました。それを感じた瞬間、私は傲慢にも、新聞を通じ社会の声なき声が自分に憑依するような感覚を得たように思います。
毎月最終週の火曜日に入稿し、金曜日に記者さんと校閲さんと応酬しながら原稿を整える作業がなくなった2024年の春に朝日新聞デジタル(Re:Ron編集部)からお声がけをいただきました。つぎ、自分が何をしたいかと考えたとき、「共感」や「内省」以外の武器を持ちたいと思ったし、研究者なりの社会への貢献をしたいと思いました。
そこで、研究室でやっているジャーナル・クラブ(研究分野に関連する論文の紹介とディスカッション)をもう少し平易にし、かつ、五年前に刊行した『みんなの「わがまま」入門』のような、「生活に即した社会運動のすすめ」としても提示できるようなものがよいのではないかと考えていました。そういうわけですので、人に届きうる言葉を持つ社会運動の専門家として、引き続き定期的に社会に声を届けていきます。
最後に、「モジモジ系時評」歴代の担当記者である湊彬子さん、定塚遼さん、平岡春人さんに心よりお礼を申し上げます。「あちらこちらに社会運動」担当である金澤ひかりさんと、また新しい自分の世界を作っていこうと思います。
【参考文献】大澤真幸「解説 ほんとうの<明晰>がここにはある」見田宗介『白いお城と花咲く野原――現代日本の思想の全景』河出書房新社.