前回(社会運動「論」と社会運動「研究」(1))のつづきです。
サンディエゴからマンチェスターに移動して、社会運動研究の国際会議AFPP Conferenceでは”Prefiguration performed by ‘pretend’ squatting: The case of the self-build community engaged by activists”という報告をしました。社会運動従事者の自力建設を通じたライフスタイル型の活動を分析した研究プロジェクトの一部です。
先週参加したMobilization Conferenceに比べると、こちらはオフィシャルな協力関係はないものの、主催者やキーノートスピーチの多くに社会運動研究を代表する国際誌Social Movement Studiesと関係の深い研究者が多く、欧州からの参加者がほとんどなのはいうまでもなくですが、Sociology以外にもArt and PerformanceやSocial Psycology, Antholopology, Social Policy, Geographyといった多領域の研究者がいるのがMobilization Conferenceとの大きな違いです。量的研究はあまり見られず、ほとんどが質的研究です。
私は社会運動「論」と社会運動「研究」という言葉をわりと意図的に使い分けてきたのですが、Mobilization Conferenceが社会運動論Social Movement Theoryなら、AFPPは社会運動研究Social Movement Studiesという印象がありました(ただ、これが私の「印象」にすぎないことも後で説明します)。だから問題意識や方法論は共有されておらず、基本的には社会運動が対象であれば良い、というのがAFPP ConferenceないしSocial Movement Studiesの前提だと勝手に解釈していました。
対象、分野の多様性もさることながら「とりあえずアイディアを共有する」という段階のプレゼンから、博士論文のプロジェクトのほぼ仕上げのところまで来ているものまでさまざまです。分析するデータもかなり独特というか型にはまらない面白さがあり、例えば、過去の報告は、アクティビズム入門書の言説分析やデモに使ったプラカードの保管場所データの報告など「その手があったか」と思わせられることも少なくないです。これだけ書くと、単純に「面白い」で終わってしまいそうですが、先行研究の理論との結び付け方が上手い報告は本当に上手く、思わずその場でいろいろ質問したくなります。
セッションの編成としては、Utopianism, Anthropoceneといった大きく流行の概念を用いた研究から、EmotionやPrefigurationといった社会運動分野で流行の概念、またright-wing activismやyouth、degital activismなど、近年注目されている対象に応じてきれいに揃っている印象です。ただセッション内での報告の分散がかなり大きい点はMobilization Conferenceと対照的かもしれません。
他の数名の若い参加者に「Mobilization Conferenceに行ってきた」と言ったら「それなに?」という感じで受け止められたので(なお、過去にMobilization Conferenceに参加した人に「今年はAFPPにも行った」と言ったらやはり「なにそれ?」という感じでした)、少なくとも若い学会参加者のレベルでは相互交流としてはあまりない、というか、私が勝手に別々のものを無理に同じカテゴリのものだと思い込んでいたのかもしれません。
参加者の方々が既に公刊した論文も見せてもらう機会がありましたが、ジャーナルは地理学から人類学、組織論から都市計画までいろいろでした。このように考えると、前回も述べたような私の「社会運動論」をめぐる勝手なジャーナルのスタンプラリー(「Social Movement StudiesとInterfaceに載せたから、次はContention、でMobilization…」)は、本当に狭量だったなあと反省しました。
大学院生の頃「富永さんは指導教員が社会運動論じゃないから」と日本の大学の先生に言われたことがあり、それで運動論者としての正統性にこだわってしまい、それでなるべく社会運動論の国際誌に載せなければならないという思いがあったのですが、それもその先生の見え方でしかなかったんだろうなと思います。多分、私や先生が考えているよりも、社会運動論/社会運動研究がそもそももっと多様で広くて、何より、人によって見え方が違うのでしょう。
私は欧州の先生方にメンターになってもらうことがあり、上に挙げたような経緯もあり、よく「社会運動論の論文を投稿するのにおすすめの雑誌は?」と聞いていた時期があったのですが、ある先生はOrganization Theoryと言っておられましたし、ある先生はPoLAR、またある先生は……という感じで、それぞれ全く異なるディシプリンに立脚する雑誌に言及されるので驚いたことがあります。
日本の社会学のテキストでは、アメリカの「”資源動員論”的社会運動論」とヨーロッパの「”新しい社会運動論”的社会運動論」のふたつがあって……、という記述がよくされます。学史を学ぶ、論じるのであればこうした区分を踏まえることは必要でしょうが、社会運動という現象を何らかの学術的な枠組みによって把握しようとする個人のポジショナリティを規定するにあたってはやや狭い指標かもしれないと今は思います。そして社会運動「論」の研究者は、日本社会学会やたまに日本政治学会で報告するわけですが、日本地理学会にも日本建築学会にも観光学術学会にも歴史学研究会にも社会運動を対象とした研究報告は当然ながら存在します。私はそうした研究をこの論考で勝手に社会運動「研究」と呼んでしまっているのですが、これらの研究も「論」の研究と相互に引用し合いながら影響を与え、発展しあっていますから「社会運動論」と呼んでも良いのでしょう。
私がメンターになっていただいた何名かの社会運動の研究者には、政治学者も人類学者も社会学者もいますが、ただ皆「社会運動論」を構成しているという自覚は変わらないものと思いますし、少なくとも私の目には、私の勝手に分類した「論」とか「研究」とかの違いを気にせず付き合っているように見えます。Mobilizationの論文もSocial Movement Studiesの論文も相互に雑誌の別なく引用し合っていますし、私も両者で査読した経験がありますが、少なくとも私個人の場合、雑誌が違うからと言って何かを変えたこともありません。
それに、あまり狭く捉えすぎないほうが、居心地の悪い思いをせずにすむし、やりたいこと、やれることの幅も増えるのではないでしょうか。例えば「住まいに着目して社会運動の研究をしたい」という人に「それは社会運動論ではありません」というより、日本生活学会も日本建築学会もあるよ、Cultural GeographyやEnvironment and Planning Dも参考になる査読コメントがもらえるかも、というほうが、その人の問題意識をより活かす形で先行研究に貢献しうる研究が可能になるでしょう。
私の研究室では社会学だけでなく、社会運動を研究する政治学、地理学、観光学、歴史学、法学といった分野の院生・PDの方々が来てくれています。それは私がこの10年近くの間で得た研究者として貴重な財産のひとつです。この財産は研究だけでなく、私が公に向けて「社会運動」という事象をそれなりに親しみやすい形で語ることができている点ともつながっているのではないかと勝手に考えています。
ちなみにAFPPは、指導院生さんと院ゼミに出続けてくださっている院生さん(ふたりとも今年度はUKの大学でしばらく過ごされます)と一緒に行ったのですが、二人とも英語が堪能でさまざまな社会運動に詳しいこともあり、活発にネットワーキングされておられました。私自身の歩みは以前と比べてゆっくりしたものになってしまっていますが、こうした若い人が周りにいると、追いつくのは無理でも自分なりにでも歩まなければとつくづく思いますね。