教壇から教壇への気まずい往還

 今学期の講義ももうすぐ終了です。立命館では主担当科目「国際社会入門」といくつかの少人数演習を、関東では慶應義塾大学で「自由研究セミナー」を、また変革のアソシエというところで市民向けのセミナー「社会運動の組織論」を担当してました(こちらは3月8日が最終講義となりますので、ご関心をお持ちの方はぜひいらしてください。と3月7日現在で書いて効果があるものかどうかはわかりませんが……)。
 関東での講義はどちらも専門に近い演習だったのですが、学生さんたちから社会運動に関わる上での生の声というか、例えば関心やモチベーションのみならず、抵抗感や葛藤を聞けるのはありがたいことでした。「やっている人」向けの講義はやはりものすごく緊張するなあと思いつつでしたが、暖かく迎え入れていただきホッとしています。
 ある受講生の方が雑談の中で「自分はコミュニティによって顔を使い分ける方なので」と仰っていたのですが、私も同じで、関東では社会運動研究者の顔、本務校では国際社会学の教員の顔をしていたように思います。毎週のように関東と関西を行き来していましたが、常になんとなくの気まずさを感じていました。

 私の講義や書くものの中では、社会運動に携わられている方に対して「社会運動家」や「アクティヴィスト」といった呼び方はあまりしておらず、「参加している方々」「従事者」「実務をされている方」(また変な感じですが……)という、ちょっと持って回った表現をしています。この表現はそのまま、社会運動をしている人の「運動していない側面」を強調する自分なりのこだわりかもしれませんが、どちらかといえば自分と運動の距離感、もっと言えば「気まずさ」を表しているような気がします。
 社会運動に参加しているわけでもない私が、社会運動の組織論や社会運動論などという講義を社会運動をやっている人に教えるというのは、相当緊張しました。もちろん、そういう緊張感自体は社会運動論だけでなく、例えば行政学とか経営学を教えている先生方にもあるのだと思いますが、おそらく社会運動特有の性格もあるのではないかとも感じていて、言葉にできないながら抱えている課題です。講義をしているうちに解決するというものでもないので、常に議論をひらくというか、文献の選定や論点の提示をこちらでさせてもらったあとは、むしろ一緒に勉強会をしているような態度で臨んでいました。それが良かったかどうなのか結局わからずじまいのまま、明日も講義のため東京に向かいます。

 社会運動の話をしない関西から社会運動の話ばかりするために関東へ向かうというのも、普段住んでいる地域で何もやってないような感覚も生まれて、それも気まずさの種でした。「よそのことばかりやって、地元(家)のことにろくにコミットしないタイプの人」というのは、その活動が何にせよ批判される傾向にあると思いますが、自分がまさにそういうタイプの人だなあと新幹線の中でしみじみ考えたりしました。ただ、常にそんなうじうじした感情を上回る楽しさが受講生の方々との議論の中にあったのも忘れられません。 時間が終わる頃には喉はからからに、指はチョークあるいはマーカーでいつも汚れてしまうのですが、関西と関東どちらでもとても楽しく過ごしていました。

 2018年度の後期は、どこか自分と運動と生活の距離を感じて、気まずさや居心地の悪さを抱くことの多い学期でしたが、楽しくやれたのは、やはり受講生の方々、本務校や非常勤先のスタッフの方々のお陰だったと思います。 来年度はいまのところ関西でも関東でも講義はありませんが、単発の講演などでお会いできるのを楽しみにしています。

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