6月の寄稿その1(毎日新聞『時事ウオッチ』)――200x年のヒットソング・メドレーについて

 毎日新聞関西版の隔月連載、「時事ウオッチ」に寄稿しました。こちら(https://mainichi.jp/articles/20180624/ddn/010/070/028000c)からオンラインでも全文読めます。震災のことについて書くべきかどうか迷っていたのですが、実は茨木市で、友人との面会に向かっている際に被災しました。ただ、それについて書いたり言ったりすることをとどめたのは、自分がたまたまそこにいただけで、研究室や家屋が損壊した人に比べて「本当の当事者」ではないと思ったからです。
 いまも大阪北部に研究室をお持ちの先生方は整理の最中でしょうし、お怪我をされた方、ご自宅が被害に遭われた方もいるかと思います。そうした中で、自分が家に帰れなかったことや、転びかけてはげたヒールのつま先や、ガスが機能しない中で無理やり浴びたシャワーの冷たさをもって、何より、友人とどこかでこの変なピクニックを楽しんでいた自分自身を、「被災者」だとはとても言い出せなかったのです。
 私たち自身の傷の深さが比べられるものではないことは、おそらく頭で理解していても、なかなか自分自身に適用するのは難しいのではないでしょうか。他人の傷はそれぞれ尊重できても、いざ自分を顧みると、「自分なんか大したことない方で」と思ってしまう。「当事者だけに声を上げる権利があるわけではない」と常々言っているのに、自分のこととなるとなかなかそうはできなくなる。少なくとも自分はそうだから、こういうことを書いてみたくなりました。

 ここからは私事ですが、「当事者として語れない難しさ」について、もっと前からずっと解き明かしたいと思っていました。念頭にあったのは、ある自死した一人の旧友と、もうひとりの友人とのことです。

 ある年に、ある友人を亡くしたのですが、彼とはもう数年間会っていませんでした。ある時期だけ、みょうに気が合った時があって、いろいろ話したり遊んだり、他の人に言えないことを共有したりもしていたのですが、居住している地域が離れてしまったこともあり、彼の死を知ったのは、ずっとそばにいた同級生たちより少しだけ後のことになりました。
 私は彼を悼む資格が無いのだとずっと思っていました。少なくとも、私より長く一緒にいた人びとは彼と実際に話すわけでも遊ぶわけでもなくとも、その事実に直面し、体験することでショックを受けたり悲しんだり、それを集合的に共有することで、より濃く「当事者」として存在していたはずです。その上で、自分が彼の死において、ある時期を強く共有したことだけをもって当事者だと主張することはとてもできなかったのです。

 その数年後、友人たちとカラオケに行く機会がありました。だいたい私はこういう時ほとんど歌わず、この人はこの曲が好きなんだとか、今こういう曲が流行ってるんだとか、あと選曲履歴なんかを見たりしているのですが、だいたい数時間もすると割とレパートリーが出尽くしてきて、何となく世代の同じ皆が歌えるものとなると「何年のヒットソング・メドレー」になるという印象があります。その日も長期戦だったので、終盤には誰が入力したのかそうしたメドレーが入れられていました。
 そこで流れる曲は、わりと今でも聴いている日本語のヒップホップであったり、恋愛バラエティーの主題歌であったりしたと思うのですが、誰もがやや倦怠気味に盛り上がっている中、隣に座っていた友人だけが静かにこうつぶやきました。「◯◯(亡くなった友人)の亡くなった年だ」。彼もまた、私とある時期に仲の良かった、現在は疎遠な友人のひとりでした。

 私はその言葉を発した彼のほうを向いて、でも何を言っていいのか分からなくて、静かに「うん」と頷くだけでしたが、彼が亡くなったということを一瞬であれ共有できるということに、当事者として悼めるということに、どれほど気持ちが救われたかわかりません。周囲は賑やかに「懐メロ」で盛り上がっていて、これ以上その友人と彼のことについて話す機会はありませんでしたが、いまでも鮮明に思い出します。

 賑やかなメドレーの中にうかぶ、静かで短い、でも確実に私を救った彼のつぶやきのように、誰かの心に届くものであればと祈ります。

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