人にかけて後悔した言葉

 毎日新聞大阪本社版の隔月のリレー連載が、今週の日曜版に掲載されています。下にこっそり掲載していますが、同じ日の他の記事もとても興味深かったので、ぜひ毎日新聞さんのサイト(https://mainichi.jp/articles/20181111/ddn/010/070/026000c)から読んで、他の記事に飛んでいただけると嬉しいです。

 私はだいたい、人と長めに話した日は帰宅中とか夜眠るベッドの中とかで、具体的な言葉を思い出して「ああ~こんなこと言うんじゃなかった~」と心の中でじたばたするタイプなのですが、中でも「人にかけて、猛烈に後悔した言葉」があります。それは、ある被害や苦しみを訴えた人に対して伝えた、「自分の周りの人も同じ目に遭った」というような内容のことです。
 自分を弁護するわけではないですが、人に対してこのような言葉をかけた経験のある人は少なくないのではないかと思います。また、他人が私にこうした言葉をかけたとしても、その反応がとんでもなく不誠実だとは思わないでしょう。ただ、この言葉がなぜそんなに自分の中で嫌だったかというと、被害に遭った人に対して「あなただけじゃないから安心して」と伝えようとした目的ももちろんありましたが、一方で相談された自分が受け止めきれなかった衝撃を「他人にもあること」と普遍化して緩和しようとしたからなのだと今は思います。そういう経験を思い出しながら書いてみました。

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<談論“西”発>社会のせいにできない「私」=富永京子

 シリアで拘束されたジャーナリスト、安田純平さんの解放と帰還を機に、にわかに「自己責任論」が巻き起こっている。ただ、この「自己責任」という言葉は独特な文脈を持っており、例えば「受験に落ちたのはお前の自己責任だ」とはあまり言わない。つまり、誰かが行動を起こし、それによって起こった損害を他者(ここで想定されている他者は多くの場合が「政府」、ひいては政府に税金を納めている「国民」であろう)が負担するという状況にこそ強く現れる。生活保護を非難する際に用いられるのもそうした理由からだろう。

 この自己責任論を、国家の義務やジャーナリズムの社会的意義といった観点から誤りだと論じることは非常に重要だ。その一方で、この社会には、責任を「自己」のものにしたがる風潮がある。私たちがなぜこれほど「責任を取る」ことが好きなのかは、一度考えてもいいのではないかと感じている。

 職場でのトラブルやハラスメントの相談で、必ず誰もが「私にも責任があるんです」「私も悪いんです」と前置きするという話を、ある組合関係者から聞いたことがある。そこには、外的要因による苦痛や苦悩を「どこにでもあるもの」として処理したいという欲求と、事が起こるまでの「自分にしかない」努力や経験を否定してほしくないという恐れがどこかで併存しているように思う。

 すべてを所属組織や政府といった社会のせいにするならば、自分が被害を受けた理由もまた大きな社会的枠組みの中に回収させざるを得なくなる。もしも第三者から「あなた自身は悪くない」と認められてしまえば、その社会を選んだ経緯、そこで積み重ねた経験といった、自分自身が作り出し、歩んできた物語までもがその社会の語りに組み込まれてしまうように感じるのかもしれない。そのために、私たちは「社会」より先に「自分」の責任に言及しようとするのではないか。

 このことは、私自身が研究しながら感じている、社会運動への違和感に少しだけ似ている。社会運動は、個人の痛みや傷から共通の要素を取り出して、その要素に基づきながら社会的公正を訴える試みである。痛みの中にある固有性や特異性ばかりを見ていては社会の病理として問題化できないからだ。だからこそ、個人の経験を一度、ある種の普遍性で塗りつぶす作業がどうしても必要になる。それは、時としてひどく暴力的に映るのだろうと思う。

 今年最も盛り上がった社会運動に「#MeToo」運動がある。セクシュアルハラスメントやジェンダー・ハラスメントに対して声を上げる大きな動きだ。自分もそのような被害に遭わなかったわけではないが、簡単に声を上げられない気持ちがあった。「私たちは怒っていい」と言われれば言われるほど、画一的な「私たち」や「怒り」の中に固有の経験を押し込められてしまう気がした。

 他人を責めるために使われる「自己責任」という呪いの言葉に、私は強く反発する。一方で自己に向けられるその言葉は、強力な全体性からかけがえのない固有性を保持しようとする、ある種の「お守り」でもあったのではないか。
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