毎日新聞大阪本社版の隔月のリレー連載が、今週の日曜版に掲載されています。ここ最近、じつは、ずーっと「生産性」という言葉が気になっていました。私の政治的な立場や主張とは全く距離のある議員の方が発された言葉でしたが、そうした言葉にみょうな「親近感」があったのもまた確かでした。
少なくとも、私にはただの「非常識な政治家の問題発言」というふうには思えなかったのです。過激な発言によってある種、キャラを立たせようとしてしまう彼女の姿に、勝手になにか重ねてしまうものがありました。
そこで、女性国会議員比率が極端に低いこの国で、彼女に(私に)この感覚を抱かせるものは何なのか、すこし考えてみました。
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時事ウオッチ:「生産性」を掲げる背景に=富永京子
2018.08.26 大阪朝刊
<談論“西”発>
今月、仕事で大きなミスをした。こんな時、職場に迷惑をかけて同僚の足を引っ張っている、自分など職場にいないほうがいいのではと思ってしまう。「お荷物」になっている自分を省みると、「生産性」という言葉がふと頭をよぎる。
杉田水脈(みお)衆院議員が性的少数者(LGBTなど)について「生産性がない」という論考を月刊誌に寄稿した。この「生産性」という言葉は子どもができないことや、子どもを作らないことを指している。それは本来、否定的に考えられるべきではないが、それを「生産性」と捉える態度がどこから来るのか気になっていた。
子どもができないことを生産性がないと捉える態度は「人間を生産することは社会に資する」との前提に基づく。生まれたからには「社会に資する」「役に立つ」ことをしなくてはならないとの価値観自体は、私たちの思考の中に抜き難く存在するものであるだろう。しかし、その価値観こそが「子をなさないことは生産性がない」という発言を支えている。
このような話になると「生産性がなくても(役に立たなくても)生きているだけでいい」という意見が必ず出てくる。そういった意見自体は、私も頭ではよく分かる。しかし、その言葉自体が、いるだけで肯定されてきた人の傲慢だ、と感じる気持ちがなかったわけではない。自らを肯定的に捉えられず、そのままでは「お荷物」とされやすい人のほうが「役に立つ」と言い続けなければいけない立場に立たされているのではないか。だからあのような論考を、男性社会に生きる女性議員が編み出すことに、身につまされるものもあった。マイノリティーだから過剰同調する。自分にも覚えがある。
大学院生時代、研究室で「生産性」という言葉を使わずに学問ができる人は、他人の顔色を気にせず、堂々とできる立場の人だった。そうした立場になかった私は、人の顔色ばかりうかがって、自分の業績が多く、いかに「役に立つ」人間か、と言い続けた。それは電車内で見るさまざまな大学のオープンキャンパスの宣伝にも、同じようなものを感じている。
18歳人口が減少期に入り、大学経営が厳しくなるとされる「2018年問題」に際して、多くの大学が対策を練っている。読売新聞6月21日朝刊掲載の調査によると、回答した近畿や中四国などの国公私立大計192校のうち、143校が入試広報の強化、124校が新キャンパスの開設など教育環境の充実、100校が就活支援の充実を対策として挙げたという。学問や研究の充実といった回答は見られない。大学自体が、もはや他人の顔色をうかがわなければやっていけない「お荷物」として見なされつつあり、その視点を内面化している。
ある人やある営みを生産性などという概念で切って捨てるのはばかげたことだ。しかし、そう言い切れるほど、私たちはその価値観から自由であると言えるだろうか。今や「生産性」という価値を躍起になって掲げている大学という場で長年を過ごし、研究室の中で、おそらく最も「生産性」にこだわり続け、いま職場で、自身の「生産性」のなさに苦しんでいる。そんな自分には、この言葉が発された背景がよくわかる気がする。
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■人物略歴
◇とみなが・きょうこ
立命館大産業社会学部准教授。1986年、札幌市生まれ。東京大大学院博士課程修了。専門は社会運動論。近著に「社会運動と若者」。
(記事はこちらから https://mainichi.jp/articles/20180826/ddn/010/070/051000c)
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