「いじめられたから見返そうと頑張る」には無理がある(Interfaceに論文掲載)

 社会運動の専門誌Interfaceに論文が掲載されました(こちらから読めます)。国際誌への掲載としては、2017年に刊行された前回の論文から随分時間が経ってしまいました。内容は「社会運動の旅(Protest Journey)」に関するものですが、ここでは今回の論文の執筆に至るまでの少し別の話をさせてください。

 この3年間はある事情で研究が難しい状況にありました。この論文もいくつかの雑誌に投稿を繰り返してようやく掲載されたというところです。理由は後述しますが、いままでお世話になってきた「日本の社会運動論の先生に認められるため」に頑張ってきたのですが、もう限界があるような気がします。この論文が掲載されたこともあり、しばらく、社会運動研究のほうは好きなペースで行うことにしようと思います。

 なんで認められることに躍起になっていたのかというと、数年前にある社会運動の研究会(特にメンバーシップというものはないですが、比較的歴史のある研究コミュニティで、メーリングリストに登録されている方は多数にのぼるのではないかと思います)で運営委員に登録されていたのですが、それをいきなり外されてしまったのです。

 突如のことで、特に連絡もなかったので、理由は聞けずじまいですし、追及する勇気もありませんでした。また、当該分野を代表するような、尊敬する先生方がハラスメントなんかするわけがないと考えていたので、先生方の「お眼鏡にかなわなかった」のだと考えるようになりました。
 何も連絡もなしに連絡を断つという先方のやりかたに問題があるんじゃないか……と薄々思いはしつつ、周囲に相談したところ「それはハラスメントなのでは?」と言われたこともあったのですが、しかしそれを受け容れられず、あくまで「何か」が足りない自分の問題として処理しようとしていました。

 院生時代からお世話になっていた先生方がそんなことをするわけがない、自分が悪かったに決まってる。だから、もう一度コミュニティに参入できるように恥ずかしくない業績を作ろう、と思いながら、先生方がかつてくださった優しい言葉を思い出し、「自分が悪い理由」を思い当たる限り考え、自分なりに解決できるよう努力した数年間でした。
 とはいえ、国内の研究雑誌だとどなたかの査読には当たってしまう可能性が高いから(査読は匿名ではありますが、分野が近いということは研究対象だけで誰の研究か分かってしまうということでもありますし――もちろん、先生方がそんなアンフェアなことをするとは思いませんでしたが、当時はそれくらい怖かったのです)。それで国際誌にしよう、ということになりました。
 ただ、本来、どんなに不足した人間であっても、仕事上の人間関係から切り離すことは問題でしょう。だからこそこうして業績を出さなくとも、この文章を書いていてよかったはずなのですが、それが出来ないほどに「他人を責める」ということに抵抗がありました。自分を責めるほうが容易く、事実そうしたわけですが、それをすればするほど(身体と心のことなので、詳細は省きますが)「病む」方向に自分を追い詰めてしまいました。

 この研究会には恩義がありますが、研究会そのものも年長で男性の先生が長く話される事が多く、「批判」というには度が過ぎた攻撃的な言葉を聞くことも少なくありませんでした。また懇親会も他の先生方の悪口や噂話が多く、「ついていけない」と思いながら「ついていかなければならない」のが辛かったです。懇親会なので義務ではないのですが、かといって行かないと自分の悪口を言われている(そうでなくてもどこかで言っているのでしょうが……)ような恐怖感が常にありました。指導教官も研究室も「社会運動」を主要な主題として扱っているわけではないので、専門分野において人間関係的な拠り所もなかった院生時代の自分は、「この人達に悪く言われないようにしよう」というところが行動の規範として強くあったのではないか、それが今まで抜け難く残っていたのではないかといまは考えています。

 自分が、自分より権力のある先生から理不尽な扱いを受けた、そのことを認めるには本当に長い時間がかかりました。なんとか理屈をつけようと、「強い」自分でいようと頑張ってきましたが、もういいのではないか、と思っています。そろそろ自分の弱さや傷をきちんと表明しなくてはならないと思った理由もあります。それは私の指導院生の方々と、私のもとに来て下さる研究員の方々が気づかせてくれました。

 私のもとに研究員の方や、院生の方が来てくれるようになってもう数年経ちますが、かれらが私のもとで研究したということで何か不利益を被ってほしくないし、そうでなくても、かれらには私よりもう少しだけ自由に研究してほしいのです。そのために、日本語で研究交流ができるコミュニティが健全にあることは、やはり重要だと思います。
 もうひとつ、彼らの論文を読んでいると、自分が十全に研究できない状態でも、自分の稚拙な論稿であっても、何がしか踏み台にして、私の問題意識を引き継いでくれるのだと感じています。そういう点でも、研究は一人でやるものでないし、私一人が認められようと頑張ったところで、いい意味で、やはり意味がありません。だからこそ、今私のやることは、私より後のかれらがもう少し自由に息をしながら前に進めるように、今後はそういうコミュニティづくりを、研究室や読書会、研究会を通じてやっていけたら、と考えています。

 ここで書いたことはいずれも当たり前のことで、そんなこと早く気付けよと思われるかもしれないのですが、足元のことに気づくのが一番、時間がかかりますね。

※本論稿は、朝日新聞東京本社版1月9日夕刊に掲載された「富永京子のモジモジ系時評」を大幅に編集・加筆したものです。

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