拙著『社会運動のサブカルチャー化』、オンラインでは全然購入できず、たまに「どこに行けば読めるの」といったご質問をいただくのですが(うう……)、全然売り切れたとか焚書されたとかいうわけではないので、オフラインの書店でご注文いただけると嬉しく思います。大きな書店ではちょっと在庫があるようでございます(https://honto.jp/netstore/pd-store_0628109735.html)。スミマセン。あとは、高価な本でもございますので、大学図書館や自治体の図書館にリクエストしていただけますととても嬉しいです。
さて、11月の『週刊ダイヤモンド』に引き続き、『週刊読書人』(12/16号)と『図書新聞』(1/28号)のご書評を、それぞれ成蹊大学の伊藤昌亮先生と明治大学の大畑裕嗣先生にいただいております。
週刊読書人の書評(ここから全文が読めます:http://dokushojin.com/article.html?i=623)では、本書のややこしい分析枠組と分かりにくいオリジナリティを分かりやすくご紹介いただいております。
ご言及いただいた「サブカルチャーの社会運動化」については、評者でおられる伊藤先生も排外主義運動やデモを対象としながらとても参考になるお仕事をされているのですが、もちろんリベラルと呼ばれるような革新的な運動にもございます。音楽やコメディといった狭義のサブカルチャーが、あるしきたりやこだわりを伴いながらサブカルチャーとしての社会運動を作り上げていくことも当然あり、現在絶賛校正中(うう……)の新著ではそのあたりのことを書いています。
いくら社会運動が個人化・流動化されたとしても、組織の存在感が過去に比べ低下していたとしても、集合的な行動の「中」と「外」を区切る媒介が必ず存在するはずで、そこに狭義のサブカルチャーがカウンターカルチャーとは異なるやり方で位置づけられていくのではないか、ということを書いています。
他方、図書新聞の書評は、「あとがき」にも書いたような私自身の非常に個人的な問題意識を汲み取りながら、運動の問題意識を再構成いただいています。評者の大畑先生には私の博士学位申請論文をご査読いただきまして、本になったものをこの雑誌でご言及いただいたことは本当に嬉しく思っています。
この本はシンプルにいえば「アクティヴィスト(活動家)として、社会運動とともに生きるとはどういうことなのか?」を問うているのではないか、というご指摘が心に残りました。個人的な立場からリプライをさせていただくとすれば、この記事を読んで真っ先に思い出したのは、私の修士論文に対して先生から社会運動論研究会の場でいただいたコメントでした。その修論は、今のように「活動家」の生き方を明らかにしたいというよりは、「G8サミット抗議行動」という(私にとっては)不思議な出来事を明らかにしたい、という問題意識のもと書いたものだったのですが、修論の草稿に対して大畑先生は、「この事例が新しいのなら、研究としての新しさなどを理論武装するよりも先に、それをそのまま書けばいいのではないか?」というご助言をくださいました。こうしたご指摘の根幹は今回いただいたコメントと同じなのではないかと感じています。こうした経緯を考えると、私は本当に成長していないんだなあと痛感します。
札幌に住んでいれば北海道で行われた運動に、若くなくなれば若者の運動に、移動が多いときは観光としての運動にと、どうにも関心と筆が先行してしまい、なかなか学びが深まらないタイプなのですが……、いつも身近な人とのコミュニケーションが、私に研究意欲をくださることは間違いないのです。いまも学生さんから多大なインスピレーションをいただいています。書くことを通して、少しずつ関心に合った研究蓄積を選び取る知識を作っていきたいなと思います。