なぜ投票に行こうと言えなかったのか 「私が投票に行く理由」と社会運動の意義

 朝日新聞2017/10/21朝刊(東京本社発行版)に「私が投票に行く理由」というインタビューが掲載されています(www.asahi.com/articles/DA3S13191995.html)。大阪本社発行版では見られないので少し残念だったのですが、この日はちょうど東京のホテルにいたので、実際の掲載紙を見ることができました。また、田村哲樹先生のウェブサイト(http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20171022/p1)でも言及していただいています。
お声がけいただいた記者の方とお話するのはとても面白く、お会いしてお話出来ただけでも価値ある時間でしたが(こうした仕事を引き受ける理由の多くは記者や編集者の方との対話の面白さだと思っています)、まとまったものを見ていると、自分の自分らしい部分が引き出されていて驚きました。とりわけ、「踏みつける/傷つける」という言葉は随分自分らしいなと思いました。

 傷つけるという言葉を用いたのにはある政治家の方と立候補者の方との思い出があります。
私は学生時代に若年投票率を上げる市民運動みたいなことをやっていて、その流れで選挙運動を手伝ってたりしてました。その中で、ある知人の選挙運動を手伝っていた時、親しくしてくださっていた政治家の方がこんなことを仰られていました。――彼の人生にとって、いま当選することがいいのかわからない。当選して職について、4年か8年か12年か、でもその後も人生はずっと続く。社会や政治を変えたい気持ちは分かるが、政治にかかわったことによって変わってしまう自分の人生についても考えるべきだ、というものでした。この発言を聞いて初めて、私は政治に強く関与することが個人的な経験や営みに及ぼす影響(「個人が政治に及ぼす影響」ではありません)について考えるようになりました。もちろん政治家という職業だからこそそれが顕著なのですが、おそらく社会運動従事者であっても労働・納税する市民であっても同様でしょう。

 それまで活動の一環で「若者よ選挙に行こう」みたいなイベントを開催したことがあったのですが、一方で、「若者よ選挙に行こう」「若者も政治の当事者だ」と言い続けることにはおそらく何か限界があると感じていました(もちろん、主張し続けなければ議論も展開せず、課題も見つからないわけですから、こうした活動を継続すること自体は非常に重要であると思います)。「若者」は限られた形でしか社会の当事者であり得ませんし、その当事者性も年長世代に比べて流動的なはずです。そうした点を踏まえると、当事者性に訴えることは非常に難しいのではないかと考えていました。
少なくとも、選挙運動の中にいて私が当事者と思えたのは、上述したようなやりとりに見られるような、候補者である友人・知人が職にありつけるか、そしてその職を通じて、自分のやりたいことをできるか、というごく私的な関係性においてだけでした。そう考えると、「その候補者が傷つくか、傷つかないか」ということが主要な要素になるので、よほど仲の良い人や知り合いが立候補していない限りは「どちらも傷つけない方」という選択肢をとることになりますから、そうした背景があって「傷つけ/踏みつけ」ないという言葉を使ったのだと思います(そして、選挙権のない人との「私的な関係性」からまた投票するようになりました)。

 田村先生は上述したblogで、「傷つけないから判断を棚上げする」という判断について、判断の保留ではなくて個人化時代特有の負荷、つまり「自分で決めなくてはならない」という重圧がかかった上での「判断」ではないか、と論じてくださいました。このご議論には本当に首肯するところで、それに加えて自分の「誰かを傷つけるから投票する/しない」という判断を解釈するならば、限定的にしか政治の当事者になれず、しかし投票を強制するほど強い中間集団に包摂されていなかった当時の「若者」である自分は、投票するにせよ、しないにせよ、身近な人を判断の指標にせざるを得なかったのだなあと感じます。
 ただ、政治は私的な関係性の延長上に「見えない人」に対する想像の上で成り立つものでもあります。記事の中では「外国籍の先輩」が登場していますが、当時の自分に対して今の自分から一言伝えるとすれば、あなたの身の周りにいないような「貧困状態にある人」や「学校に行けない人」が確かにいて、その人を包摂するのが政治であり、あなたが嫌がった投票の先にあるものなんだ、と言うと思います。そして、あなたがどうしてもなじめなかった社会運動は、そういう「傷つく人」「踏みつけられる人」の存在を可視化させるための重要な試みなんだ、とも。

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