『社会運動のサブカルチャー化』第二刷:「サブカルチャー」と「サブカル」のあいだ

 『社会運動のサブカルチャー化』第二刷が届きました。これほど高額な本にもかかわらず、多くの方に手に取っていただいて、嬉しいと同時にびっくりしています。何年もかけて書いた博士論文ですし、当然、思い入れもありますが、価格も安くなく主題も多くの方にとっては親しみやすいものではありません。よくああいった本が……と、なんといいますか不思議な感じです。お買い上げくださった皆様、書評などでご紹介くださった皆様のおかげです。ありがとうございます。

 先日『社会学評論』(68巻1号)に、中筋直哉先生(法政大学)による書評をお寄せいただきました。本書で論じた「日常―出来事」概念、「バックステージ/フロントステージ」概念にまでご言及とご評価をいただき、とてもありがたく存じます。とくにジェンダー的な面での調査者としての観点や、「生活史」のまとめ方の採用については、とても参考になるものでした。

 ひとつ、リプライというか補足したい点として「サブカルチャー」概念があります。この概念のもつ、ある種の「紛らわしさ」に関しても、中筋先生は「わが国の社会運動論に文化への視野を開いた野宮大志郎に言及するものの、それを踏まえて、メディア研究やマスコミ評論で使われる「サブカル」を刷新するまで洗練したとは言い難い」(『社会学評論』68(1):167)というご指摘があり、これはまさにその通りだと思います。

 本書の「社会運動サブカルチャー」の枠組みは、あえて言うとすれば、社会運動に参加する人々が共有すると想定される「文化」です。たとえば、ある組織では差別的な呼称を用いてはいけない、また別の組織では暴力的なことをしてはいけないといった「しきたり」や「常識」があるとします。こうした「しきたり」や「常識」は、その組織を構成する人々の間で暗黙のうちにあるいは明示的に共有されているものですが、デモやシンポジウム、ロビイング活動そのもの(本書では「フロントステージ」と呼んでます)の中で、またはその準備(本書では「バックステージ」と呼んでます)の中でみられることになります。
 では、そういう「しきたり」や「常識」はどのように作られるのか?それは、活動に参加する個々人の日常生活における「価値観」や「こだわり」によって作られるのではないかと考えました。それぞれ異なる理想や価値観、こだわりを持って集まった人々が、集合的に規範や暗黙の了解を守りながらする行動が社会運動であり、筆者はそれらを規定するものが「社会運動サブカルチャー」だと捉えました。デモやシンポジウムといった出来事と、通学や就労といった日常の間を、人々が行き来することで、社会運動サブカルチャーもまた組織的な「しきたり」または個人の「こだわり」双方の形で伝播したり、強化されたり、ときに棄却されたり、再生産されたりします(拙著59-60頁に詳細に記述があります)。

 しかし、ただ単に集合的に遂行される意識・無意識的なこだわりや理念というだけなら、例えば「組織文化」と言っても、「ポリティカル・コレクトネス」と関連づけて論じてもいいのかもしれません。では、なぜ「サブカルチャー」という概念にしたのかと言えば、「カウンターカルチャー」概念との対比を示すためです。
 社会運動における文化は、元来、資本主義的な消費活動に基づく支配的な文化である「マスカルチャー」に対抗するための「カウンターカルチャー」という概念とともに論じられており、実際に「サブカルチャー」もカウンターカルチャーという枠組みに包含されるひとつの概念です。しかし、現代に近づくにつれ対抗すべき主流文化がなくなり、「カウンターカルチャー」という概念そのものが説明力が薄れていきます。社会運動サブカルチャーという概念は、統一的な抵抗の指標をなくした私たちの運動を作り出す文化が、「カウンター」から次第に「サブ」へと分化されるさまを描くために必要でした。同じように「脱原発」を主張する団体であっても、例えばアドボカシーやロビイングを好み、お昼の国会にスーツで向かう人々から、よりカジュアルな服を着て終業後に官邸前に行く人、大学や職場の休み時間を使いながら勉強会をする人などさまざまでしょう。そうしたさまざまな抵抗の有り様を規定しているのは何なのか、それを問いたかったのです。

 しかし、むしろ「サブカルチャー」と言われたときに、いわゆる「メディア研究やマスコミ評論で使われる」ほうの、音楽とか映画、オタク文化を指した、趣味的な概念である「サブカル」を想起する人は少なくないのではないでしょうか。例えば私は、「サブカルチャー化」という概念に関してBuzzFeedさんにご取材頂きましたが、こちらの記事でも「サブカル」という題名が用いられていることもあり(サブカルチャーを「サブカル」と略すのは特に問題のあることではありませんが)、おそらくお読みになった方は、集合性を作り出すものとしての「サブカルチャー」ではなく、いわゆる趣味的な概念としての「サブカル」を連想されたのではないかと思います。
 そして、集合性を作り出す要素としての「サブカルチャー」ではなく、趣味的な概念としての「サブカル」と多くの方が解釈されたということは、やはり中筋先生にご指摘いただいたように「『サブカル』を刷新するまで洗練したとは言い難」かったのだと思います。現在は、バックパッキング・ツーリズムを下敷きとした「社会運動ツーリズム」の研究をしており、その先行研究となっているのはカウンターカルチャー研究です。こうした歴史的文脈を捉えながら、サブカルチャーと明示するか否かはさておき、より強度のある「社会運動と文化」概念を作り出していければと思っています。

 私がこの本の二版を手にとって思ったのは、この本が博士論文でなくなったのだということです。この本は、国内外の指導教官や先輩に鍛えられながら、社会学、さらに言えば文化社会学や社会運動論(もっと絞って「プロテスト・キャンプ論」「ライフスタイル運動論」と言ってしまってもいいかもしれない)の狭い領域で書いたものでした。中筋先生はご書評の中で、C.S.フィッシャーの「下位文化」概念に触れられていますが、実はこの「サブカルチャー」概念は、文化社会学の研究者である指導教官の先生と、都市社会学を専攻されている先輩方との議論の中で思いついたものです。そうした点でもやはり、研究室や研究コミュニティの空気を強くまとった博士論文だったのだと感じます。
 ただ、多くの人に手にとって頂くことで、また著者自身が表に出ることで、著者の想定とは異なる解釈やご感想をいただくことも増えました。それはこの本が合っているとか間違っているということとはまた別として、この本が論文から本になるにつれて、生きていく場所が大きく変わった、そして筆者だけがそのことに気づかなかったのでしょう。
私は社会運動というサブカルチャー、あるいは社会運動研究というサブカルチャーの末席でずっと生きているつもりでしたが、既に何か別のサブカルチャーに足を踏み入れていたのでしょう。この本も本になったし、私も前とは違うすがたになっているんだと思います。

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